昭和39年12月21日 夜の御理解
信心は段々人間心から、神心に変わっていかなければ有り難くなれない、ふと自分の心の中に、「はぁこれが神心であろうか」と思う様な心を頂く時に、とにかく有り難い、いわゆる我と我が心が拝みたいという心、そういう心が神心である「神心となりて」とこう仰る「可愛いと思う心が神心じゃ」と神心可愛い「可愛そうな事じゃなぁ」とこう思う心それが「可愛らしいなぁ」と、これは神心じゃない。
「可愛い」が「可愛らしい」になったら返って反対におかげを落とすとこう仰る、「可愛らしい、可愛らしい」ではおかげにならん、「可愛い」と思う心でなからなきゃいけん。こんなお話がある、ん、小さい池に、小さい小魚達が沢山住んでると、平和な、池である、そこにある日、新自然とした真っ白いサギが降りたってきた、そしてその池のほとりで、その魚達に呼びかけた。
「この堀の水はもう今に枯れてしまうぞ」と「この堀におったら皆、死滅してしまわなければならん」と「全滅する」と「今の内にあの山の向こうに、もう広い湖がある」と「その湖に移ったらいいじゃないか」と、皆がそれを希望するなら自分が一匹一匹加えていって向こうの、湖に連れて行ってやろうと魚達はびっくりした、そしてそのわれ先に先に向こうの湖に連れて行って貰う事を、その白サキに願ったと言う事です。
白サキがなら、可愛そうだから、ならお前達連れて行ってやおうというて、一匹一匹それ向こうの、くちばしにその加えては旅発っていった、所がです何匹目かをその送りやってから、降りたったその白サギにです、一匹のドジョウがでた、その白サキの口元に血の付いておるのに気が付いた、そして「皆まて」と「これは嘘ぞ」と「今送っていかれたのはこの白サギに食べられてしまっておるその証拠に。
口元に血が付いておるじゃないか」と言うて、皆を止めたという話なんです。ね、まさしくその白サギが、それは口実であったただじその自分の餌にするために、加えていったとこういうのである。いかにも「可愛そうだから」というておるようであって、実は自分の私腹を肥やすための、それである、それでは、「可愛い」という心にはならない、かわいそうでは、「可愛そう」という心ではない。
けれどもこの話をですね、例えば本当にそうであったと、致しましょうかね「ここにおったんじゃ助からん」もう一つ山の向こうに越えて、向こうの湖にしな、住む事によって、この魚達が、開放されるのである、本当に、こち、おかげを頂くのであると言う事であると言う事である、人から疑われても、ね、例えば、けれども本当にそれが「かわいそう」というのである。
自分の私腹を肥やすためではなくて、向こうの湖にもし放してやる、例えばそれが色が黒うても、カラスのようであってもです、ね、そのカラスが例えば、そういうように言って、一切一人その送りやる、「けどもどうもおかしいぞ」と、「あれはひょっとしてカラスが途中で食べよるかもしれんぞ」と、と例えばお互いの声がおこって、参りましてもです、それでも助けねばやまんという。
そういう一つのまぁ、嘲笑とか、ひ、あその、噂とか、っていうものを問題にせずにです、私は、その、も、「もう本当にせっかく親切にしてやりよるのに、そういう噂がたつごたるなら、皆がそげん私を疑うごたるんなら、私はもうそんなことやめた」というのは神心ではない、そうでしょ。例え、言うても、ね、言わば信じる者だけでも、「私について来い」して、「向こうの方へ放してやろう」と。
例え人から笑われても悪口言われても、向こうに連れて行かなければおられないという、心が神心である、このへんがなかなか難しいね、よく似てるから、ね。だい大体ですね、本当に自分が親切で言うてやっておるのに、かわいそうと思ってしてやっておるのに、そげなん風に思うごとあるんならば、もう、連れて行ってはやらん、と、これは私はまだ人間心だとこう思うですね。
親切でもあり真心でもあり、または可愛そうだと思うとおった時であっても、それは、やはり、人間心的な可愛そうであると、神心というのは例えそう言う様な事は問題にしない、でやはり助けねばおかんやまんという、その心が私は神心だとこう思うんですね。このへんがなかなか難しいところ、ですからそういう場合ですたいね、本当にやはりままよという心にならなければ。
その口はしに、そのいっ一時は体を任せなければ、向こうに行けんのだからね、「十二分の徳を受けようと思えばままよという心になれよ」と、これは、かわいい、というその心を、受けるほうの側でもそうなんですよ、ね、神様のそうしたかわいいと、助けねばやまんという、とその、その心にゆだねるということ、これまた大事である。今日夕方、東京から、若林レンという方が、壱岐の教会に、このごろから、おかげ頂いており、ところが、自分の思うたようにその。
まぁ御ヒレイが、たっておるという訳でもなからなければ、自分がそこで修行さしてもらっても、さほどの事もないように、その思うたから、そのせ、大祭、の、手に合わんような時に、まぎれてです、もう黙って家出、そこを出て、そして船に乗ってから、こちらへ帰ってきた、そしてその、東京さんまた帰られた、という手紙が先日来た、私本当に東京に帰って、東京から来てですかね。
手紙が、してこういうとこに就職しとるっていう手紙が来たから、私は、別に関係ないけどもそういう手紙が来たから、私はそうか、そうかなと思うておった、ところが今日また尋ねてみえてからですね、あのう、博多の方で、はせつふうになりたいと、だからその、証人がなからなければ、雇ってもらえないから、「先生すいませんけれども、その証人になってくれんか」ということであったから。
「あらっ貴方またこっち帰ってきなさったか」と私こう言った、「わざわざ東京まで帰っておいてから、またどうして帰ってきなさったこんなまた、九州のへんにまで」ところが、「田舎の方がいいから」っていうな、まあそこにいきゃぁ、しどろもどろですから、おそらく、東京に帰られたのは、もう明らかに嘘のようですね、そして誰かに頼んで東京から出してもらった、という感じなんです手紙は、今こう、話の、節々を聞いてそれが分かるんです。
で、私は申しました、若林さん私がね、あの、ここで、皆さんが例えばお金ならお金を借りるとに証人たって下さい」と、ね、「私が判を押してやりましょう」と言やぁ、きりがないから判を押してやらんのじゃぁない、と「金を貸してくれ」と言やぁ、あるのだから、貸してやってもいいのだけども、貸してやったらきりがないから貸してやらんのじゃあない、私は神心で貸してやらんのだと私が申します。
私はどこまでも、取り次ぎ者としての立場、ね、それはお繰り合わせを願うて、それがご神意にかなうことならば、誰かが保証人になって下さるだろう、お金のお繰り合わせが付かんなら、私が貸してやったんじゃあない、お繰り合わせを頂いて金銭のお繰り合わせを頂いたという、お取り次ぎをさして頂くのでなからなければ、私はおかげじゃない、古賀先生あんたこんど布教に出てから。
こういう場合に、直面した時です、あんたが、「はぁ、そんなら私が証人にたってやろう」っていうごたる先生どんになっちゃでけんよ」っち私言うて、まあ、この人にもにもさして、話したことでした。そんな先生が多くなった事だけ事実ですね、自分がもう率先してから、仲人役をかわれたり、裁判のなんかっち言うたら自分が弁護士代わりになってからその、色んな事を勉強したりする先生が、だから「先生は本当に親切だ」と、例えば喜んでもですよ、おかげにならんから不思議です、ね。
やはり、そう言う様な、場合私は、いっぺん突き放す、ね、そしてそれがおかげになる事ならば、そういうお繰り合わせを頂く事を願う、まぁこういうようなものが、私は神心だと思うのですね。「かわいいと思う心が神心」とそれが、ね「かわいい」と思う心は「かわいらしい」というのじゃない、「かわいい」であるどこまでこのへんが大変難しい、またそれを受ける方側も難しい、ね。
白サキとカラスが、の、例を持って話すようにね、こちらの堀からあちらの堀へ、本当に、それ、事実がそうであるとするならばです、例えばさぁ、疑われても、そこを、向こうへ連れて行ってやるのが、神心であり、という事になるわけなんです、ね、それにはやはり、ままよという心がいるという事がわかるでしょ、「かわいい」という神心。私そんなことを、お取り次ぎさして頂いてから。
もう夕方のことではありますから、うっうんそれももうなんかお粗末な風して、なんとてもみえとりますもん、それで私あのお茶でも差し上げなさいっちいうて、お茶お茶をあげて、それであのうかすの木にこんな大きいのがあったから、わざわざ私の心としてはです、そのうまあお腹でも空かしておられるのじゃなかろうかとこう思うたんです、だから古賀先生あのお菓子を持っておいで、それで出させて頂いた。
で一切れ頂いてから、(家に持っていっていてからその、頂かれない、その時私本当に安心したんです「はぁこの人ひもじい思いをしてござらじゃった」っと、今度そのことを頂くんです「それが神心」とおっしゃるです、私はそういう風に神経を使うんですね、うん、なるほど「それはでけん」と言うてやってもです、もしもしならなんか夕御飯でも、食べて帰ってもらう方がいいという感じがするんです、ね、
ですからわざわざ私が、(はらの?)大きなお菓子を出してから、ところがあの、あれが腹が、本当にひもじい、減っておられるとするならです、ね、「まらもう一つ頂きましょう」という事になったら、「これはひもじいんだなこれは御飯くらいはその、出してあげにゃいけんなぁ」という、私が気持ちだったんですけどもね、ひもじい風でもなかった、そこに私が安心した、ね、その安心したってその心が神心だと。
お互い信心さして頂いてですね、言わば「浅い」、ね、親切とか、それを神心と間違えて、その、親切の、押し売りをしてはおかげにならん、自他共に助からない、信心さして頂いてお互い人間心から、一段こう、神心が使えれるような、しかもその神心とは、われとわが心が拝めるような、場合にとっては人から、非難嘲笑を受けてもです、それが助かる事のためならば、そこをやはり押して、助かる事のために、奉仕するというような心が神心であるということ、ね。
「信心とはわが心が神に向こうていくのぞ」神に向こうていくのであるから、神心がだんだんこれに集まるはずなんです、ですかだいたいは、皆さんの心の中に、そういう意味、合いで、での、お、神心がですたい、なら育っておるかどうかと、育っておるとするならば、私の心は神に向かって、進んでおるのであり、「わが心が、神に向こうのを、信心というのじゃ」とおっしゃる信心が、出けておるという事が分かるですね。
おかげを頂かなければいけません。